講 師 :田中 隆之先生 専修大学経済学部教授
Web視聴開始日:2022年5月26日
聴講者数:58名
講師紹介:
1981年 東京大学経済学部卒業
日本長期信用銀行入行。産業調査部、調査部(ニューヨーク市駐在エコノミスト)、市場企画部マーケットエコノミストを経て、長銀総合研究所主任研究員、長銀証券投資戦略室長チーフエコノミスト等歴任
2001年 専修大学経済学部教授(現職)
2012〜13年ロンドン大学(SOAS)客員研究員。専攻は金融政策、日本経済論
著書
『現代日本経済 バブルとポスト・バブルの軌跡』(日本評論社、2002年)
『「失われた十五年」と金融政策』(日本経済新聞出版社、2008年)
『金融危機にどう立ち向かうか』(ちくま新書、2009年)
『総合商社の研究』(東洋経済新報社、2012年)
『アメリカ連保準備制度(FRS)の金融政策』(金融財政事情研究会、2014年)
『総合商社』(祥伝社新書、2017年)など。
講演内容
はじめに 基本的なこと
・現在の日本では物価上昇が見られる。米国では30年ぶりのインフレ。そして20年ぶりの円安水準だが、背景には日米の金融政策の相違から来る金利差の拡大がある。
・金融政策には総需要調整策と金融システム安定化策の二つがある。今日の話題は前者。
1.非伝統的金融施策とは何か?
・通常の金融政策は、政策金利(短期)を公開市場操作で誘導して引き下げ、中長期の金利を低下させることで、設備投資増などを通じて景気拡大を図ろうとする。
・だが、政策金利がゼロに到達するとそれ以上の金融緩和ができないので、それ以外の手段で緩和効果を得ようとするのが非伝統的金融政策である。2008年の世界金融危機以降に米欧の主要国で登場した(ただし日本では一足早く1999年に導入された)。
・非伝統的金融政策手段のメニューは5つある
A 大量資金供給 〜闇雲に資金供給
B 大量資産購入 〜国債・その他の金融資産を買う
C フォワードガイダンス 〜期待に働きかける
D 相対的貸出資金供給 〜銀行の貸出増加を誘導する
E マイナス金利政策 〜強引に政策金利をマイナスにする
中心に位置するのは、BとCである。
2.変わりつつある中央銀行のマンデート(使命)
・2008年の世界金融危機までは物価の安定、完全雇用、および国際収支の均衡の三つが目的だったが、それ以降は「物価の安定」の意味がインフレ抑制からデフレ阻止に180度転換した。金融緩和で物価の安定も完全雇用もともに達成できる状況だが、それを追求しすぎると金融システムの安定と財政の規律付けが脅かされるようになってきている。

・中央銀行のマンデート(使命)についても、気候変動への対応や格差問題への対応といった新しい役割を与えるべきと言う議論が出てきた。気候変動への対応とは具体的には気候変動対策を行う企業への民間金融機関・金融市場からの資金供給を、中央銀行が後押し。日銀による気候変動対応支援の資金供給をグリーンオペと呼んでいるが、問題点も多い。
3.泥沼から抜け出せない日銀の金融緩和政策
・2013年4月アベノミクスの一環として、2%の物価目標を2年で達成するとして、長期金利の低下による景気刺激を狙った量的・質的金融緩和を実施。
・目標を達成できず2016年1月にマイナス金利付き、さらに9月に長短金利操作付きの量的・質的金融緩和に変更。
・資産購入からの「正常化」に踏み出せないままコロナ危機を迎え、2020年3月「上限を設けない」資産購入へ。
・この結果、日銀のバランスシートでは極端な長期国債増。そして政府の債務残高増加。どちらも主要国では対GDP比で随一の規模。


・株高・円安は引き起こせたが、家計・企業の期待は動かず、2%物価目標は未達。
・問題点は、2% 物価目標を降ろせないために大量資産購入の「出口」が見えないこと。このまま政府債務残高が増えると、市場が政府はインフレで債務削減を行うと読んだ時点で、長期金利上昇(国債暴落)、政府債務残高拡大、為替円安、インフレ進行の可能性がある。
・根本的な問題として、人口減少傾向が続く日本経済では将来、需要が増えないので投資意欲が沸かないという背景がある。新規需要を生むイノベーション、生産性の上昇が重要。
このまま政府債務残高が増えると、市場が政府はインフレで債務削減を行うと読んだ時点で、長期金利上昇(国債暴落)、政府債務残高拡大、為替円安、インフレが進行の可能性がある。
・根本的な問題として、人口減少傾向が続く日本経済では将来、需要が増えないので投資意欲が沸かないという背景がある。新規需要を生むイノベーション、生産性の上昇が重要。
・物価上昇により生産性向上・実質成長率上昇が実現するはずはなく、そもそも実質的な成長の結果として、賃金、物価が上昇するというのがノーマルな姿。
W.コロナ、ウクライナ危機とインフレ抑制
・今回の米欧のインフレは供給制約の側面が強いので、金融引き締めでは対処できない。とはいえ、予想インフレ率が高いところにアンカー(つなぎ留め)されないよう強い引き締め姿勢を見せる必要。
・FRBはインフレ率23%台に下げるため、本年、翌23年と利上げの予定。強い円安圧力は続く。
・政府・日銀はデフレ脱却を宣言し、2%物価目標を曖昧化(長期的な目標に棚上げ)して、資産購入からの撤退による財政ファンアンス懸念払拭が重要。
・だが、黒田総裁在任中には政策の変化はないというのが大方の見方。来年3月の新総裁誕生後、政策枠組みの変更があるかもしれない。
Q&A
Q1:銀行の業績が悪いのは低金利であるにもかかわらず借りるところがないからなのか?また金利に関しては期待にかけるという方法もあるとのことだが心理戦争なのか?
A1:1つには、低金利下で貸出金利と預金金利の利ザヤが縮小して、銀行がもうからない。つまり、預金金利はまさかマイナスにする(預金者から金をとる)わけにはいかないのでゼロ寸前までしか低下しないが、貸出金利はそれに迫るぐらい下がっている。また、低金利政策で企業に投資を促そうにも、日本市場は少子高齢化で先細り。投資の意欲がわかないというのが根本問題。
心理戦争といえるかどうかわからないが、金融市場参加者の期待に働きかけて長期金利の低下を促すという方法は「金利の期間構造に関する期待仮説」に沿ったもので、実際に作用して成功している面がある。ただし、家計や市場の期待に働きかけてインフレ期待を引き上げることには、成功していないといえる。
Q2:地銀が国債の低金利で苦しんで外債に資金をシフトしたが危険な資産のうまい処分方法は?また現代貨幣理論(MMT理論)とは?
A2:これと言ってうまい解決方法はなく、リスク管理を総合的にきちっとうまく対処していくしかない。MMTは自国通貨を発行できる国がデフォルトを起こすはずがないので、インフレが到来するまで財政拡張すべきだ、というもの。だが、これは普通の経済学でも言える当たり前の話。通常の経済学と違うのは、貨幣は納税手段として政府が認めているから貨幣たりえている、という彼らの貨幣観であり、それゆえ課税は通貨価値安定のためのものであって、インフレが来たら課税すればよい、という。だが、増税は速やかに決定できないのでインフレ対策として現実的でない。また、インフレが来るまで大丈夫、ではそもそも政策論にならない。なお、政府債務残高を対GDP比どこまで増やせるかは経済理論からは決まらず、市場参加者がどう判断するか、市場がどこで国債を売るかにかかっている。MMTよりもう少しまともな財政赤字容認論もあり、例えばO・ブランシャールは長期金利が名目成長率を下回る現状では、必ずしも基礎的財政収支を均衡させなくても政府債務残高対GDP比は発散しない、と述べる。確かにそうだが、日本の場合、計算してみると基礎的財政赤字は対GDP比2%程度までしか容認できず、今年は6.2%。相当な歳出削減または増税を本気でやらないと、政府債務残高は発散してしまう。
Q3:過去にFRBが金利を上げても円安にはならなかったが、今回円安になっているのは何故か?根本的になにが異なるのか?またこの基調が続くとするとドルが140円、150円になっていくのか?
A3:確かに日米の金利差が今回のように開いたことは過去にもあって、そのときにはこれほど円安にはなっていない。やや違ってきているのは、貿易収支が赤字になったり、少し前までは「有事の円買い」があったがその要素が薄れていることなど。怖いのは、「日本売り」で、円安、長期金利上昇という形になり、日銀も長期金利上昇を抑えられないということになった時で、そのときは140円、150円に進む。ただ、現段階では、為替市場参加者がそこまで行くと見ている、とは思えない。
Q4:金融政策で雇用は維持改善したが一人当たりの賃金は低下とあり。結局全体がより等しく貧しくなったということ。このような事を回避する闘いを金融政策及び中央銀行に望むのは的外れか。
A4:1 基本的には、金融政策(総需要調整策としての狭義の金融政策)にできるのは、景気循環を均すこと、つまり景気が悪い時に底上げし、良すぎるとインフレが来るので冷やしてやる、ということだけ。金融政策によって、経済成長率のトレンド(潜在成長率)を引き上げることはできない。
2 質問の中にある「雇用は維持改善したが一人当たり賃金は低下」というのは、図表20を指して言っておられるのかと推察。このグラフが示すのは、日銀が異次元緩和を行った2013年以降「雇用者数は増加したが、一人当たり賃金は横ばいに過ぎない」という事実。雇用者数が増加したのは、女性・高齢者が労働力化するという社会・雇用環境の大きな変化があったから(金融政策は緩和的な金融環境を整えて、それを下支えしたにすぎない)。ただし、女性・高齢者は非正規労働者として低賃金での雇用が多かったため、全体(一人当たり)の賃金は大きくは伸びず。加えて、正規雇用でも賃金の上昇が抑えられたことも、賃金が上がらない原因の一つ。
3 最近よく言われるのは、賃金が上がらないのが日本の低成長の原因であり、賃金を上げればそれが消費に回り、景気が良くなって低成長から脱却できる、という議論。安倍政権以来、政府は経団連に再三賃上げを要求してきた。しかし、賃金は、経済社会全体で生産した付加価値(GDP)の中から、その一部分として家計(労働者)に分配される。したがって、成長率が低いから賃金の上昇率が低いのであって、賃金を上げるだけで成長率が上がる、というロジックは成り立たない。
要は、イノベーションによって生産性を向上させ、同時に新規需要の開拓が進まないと、成長率は上がらない。そこで、ここ20年来、イノベーションの促進が必要だと言われ、最近は、その要は企業や政府の人的投資だ、ということが言われているが、なかなか進んでいない。
イノベーション促進策の一環として、最低賃金引上げによって中小企業に効率的な経営や技術開発を迫るべきだ、という議論も行われており、これはそれなりにロジカルな側面を持っている。つまり、生産性が向上すれば、賃上げができるわけで、それができない企業には退出を迫ることで、日本経済全体の生産性を上げて行こうという議論。賃上げをしてもやっていけるような生産性の向上、そのための研究開発投資、人的投資の促進が必要、ということになる。もっとも、言うは易しで、なかなか進まないのが実情。
Q5:日本経済がパッとしない或は悪い円安になりかねない原因は、貿易立国の後に来るエネルギーの地産地消による国富の流出を止めエネルギーセキュリティを高めるという明確な工程を金融も政治も技術も学術もが示せていない為ではないか?
A5:1 国産エネルギーの開発が必要で、そのための明確な工程を示すべきだ、というのは全くその通り。それによりエネルギー輸入が減れば国際収支の黒字が膨らみGDP需要構成項目の純輸出が伸びるので、日本経済の成長率を押し上げるのも確か。
2 ただ、それだけがGDP成長率の低さの原因ではないし(質問1への回答参照)、増してここへ来ての円安の原因とはいえないと思われる。今次の円安は、やはり日米金利差(両国中銀の金融政策の相違に起因)を市場が材料にしたところが大きく、また長期的な円安の傾向は、日本企業が円高でもやっていける国際競争力のある財・サービスを(バブル期以降)開発できていない証左といえる。過度の円高恐怖症の下、日本企業は円安になると手を抜いてイノベーションの努力を怠ってきたように見える。高度成長期・安定成長期の日本企業は、果敢にこれに挑戦していた、というイメージがあるにもかかわらず。
3 蛇足だが、日本の低成長(したがって1人あたり賃金上昇率の低さ)は、先に質問1への回答にも書いた通り、イノベーション不足によるところも大きいが、基本的には少子高齢化による人口減少のスピードが速いことがもっと大きな要因。@将来人口が増えない(需要が増えない)ことがわかっているので、企業が設備投資を手控えるという需要面と、A高齢化で生産年齢人口が(総人口以上に)減っているので、労働の投入が減るという供給面の双方から、成長率が低くなる度合いが他の先進国よりも大きく出てしまう。したがって、少子化対策が必要である、ということになるが、これも思うに任せないのが実情。
Q6:財政法第5条では「すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。」とあるが、現在の政府の手法はこの精神に反すると言うことか。
A6:1 そのように言ってよいと思う。現在日銀が国債をどんどん買っているのは、市場(すでに国債を持っている銀行や証券会社)から。財政法5条は、「引き受け」すなわち、政府の発行した国債を直接日銀が買うことを禁じているが、市場から買うことを禁じてはいない。そこでこれをどんどんやっているわけだが、これは合法だが、財政法5条の精神に全く反する。
2 安倍首相は、先日(2022.5.9)「日銀は政府の子会社なので満期が来たら、返さないで何回借り換えてもかまわない。心配する必要はない」と発言したと伝えられているが、日銀が抱えた国債は日銀のバランスシート(B/S)を通じて、日銀の準備預金に変換されこれが市中銀行に保有されている(日銀B/Sの資産サイドに国債が、負債サイドに同額の準備預金が記帳される)。
現在は、この準備預金の多くの部分に支払う金利は0.1%の金利で済んでいるが、将来金利を引き上げなければならない局面になると(たとえばインフレ抑制のため)、この金利も上げなければならなくなる。すると、日銀は国債から得る金利よりも準備預金への利払いの方が多くなり、欠損が出る。これは結局国庫の負担になるので、政府債務残高は雪だるま式に増えていく。国債が売られ金利はさらに上昇する、というスパイラルに陥れば政府は容易に資金調達できなくなる(この状態を「財政破綻」と呼ぶ)。「心配する必要はない」というわけには、とてもいかない。
Q7:ロシア中央銀行のパフォーマンスの評価と今後の見通しをお伺いしたい。
A7:1 私はロシア中銀について専門に研究したことがないので、新興国の中銀として、他との比較におけるこれまでのパフォーマンスがどうか、という評価をすることはできないが、ロシア中銀も多くの新興国の中銀同様に、市場指向型の金融政策の枠組みを徐々に整えてきていたことは間違いない。
2 ウクライナ侵攻後のロシア中銀の状況をお尋ねならば、インフレ率が急上昇(2021年初の5%程度→22年初8%→侵攻後4月18%。ロシア中銀のインフレ目標は4%)しルーブルも急落(対ドルで侵攻前の約4割強下落)したので、これに対する措置を講じている。第1に、政策金利を侵攻直前の9.5%から20.0%に引き上げた。第2に、@ロシア企業に外貨で得た収益の8割をルーブルに両替させる、A外貨預金に引き出しの上限を設ける、などの規制を行った。
その結果、4月の時点でルーブルはほぼ侵攻前の水準に戻り、インフレ率もやや頭打ちになったので、政策金利を17.0%に引き下げた。さらに5/26には11.0%まで引き下げており、ルーブル防衛はとりあえず成功しているように見える。
今後も、上記のような規制を中心にルーブルの下落とインフレ高進を抑えていくものと思われ、市場指向型の金融政策枠組みに戻ることは難しくなった。
以上
報告担当(文責):桑原 敏行
講演資料:コロナ・ウクライナ危機と金融政策